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同じく、KISAKI伝説を作る大きな要員になったのが、La:Sadie's解散から二週間も経たないうちに、新バンドMIRAGEを結成し動き出したことだ。


「止まらずに動き続ける」というKISAKIのバンド活動の歴史は、Syndromeの解散まで続いていくことになる。
MIRAGEを結成したKISAKIは、いきなり結成記念という名目のもと、全国ツアーを開始。すでにLa:Sadie'sを通し浸透していった知名度をプラスに変えていく意味でも、「異なるバンド」でとはいえ、間髪入れず勢力的に直接触れ合っていくスタイルを作りあげたのは、結果的にMIRAGEの存在を早くから全国レベルに押しあげていく面では、強い追い風になっていった。さらにこの時期には、三ヶ月連続マキシシングル発売も敢行。今でこそ連続発売を行うバンドは多いが、その歴史の礎を最初に築いたのも、やはりKISAKIだったと言えようか。
MIRAGEが活動していた1997年~2000年と言えば、世に言う“VISUAL系ブーム”が世間一般を巻き込んで起こっていた時期。世の中の視線がVISUALシーン自体に熱く注がれる中、MIRAGEは、ヴォーカルが異なる形のもと、第一期~第二期という形態を取りながら、約3年ほど活動。
月の半数をライブ日程がシメていたりなど、ライブの本数は半端なく多かった。
今のバンドたちには考えられない年間100本を越すライブ本数というのを、MIRAGEは日常的に行っていた。
なにせ結成当初は、「関西・中部・関東」と3ブロックに分け、集中ツアーを演っていたほどだ。“ZONE TOUR”と名付けたブロック集中ツアーは、いまだ誰も真似をするバンドが出てこない。逆に捉えれば、それが出来る器量を持ったバンドが、今は存在してないということ。そう考えればMIRAGEは、誕生したときから規格外の規模を持ったバンドだったと言えようか。
その規格外の姿を裏付けるよう、膨大なライブ本数はもちろん、音源の枚数もかなりのものだった。しかもMIRAGEは、当時としては珍しい、メジャー&インディーズ両方でリリース活動を行っていた。似て異なるメジャーとインディーズのシステム。その2つの枠を縦横無尽に渡り歩き、様々な仕掛けを施していったのも、軍師KISAKIの成せる技だったと言えようか。また、数多くのオムニバス盤に参加し、宣伝の糧にしていくというスタイルを積極的に取り、オムニバス盤の有効的な使い方を確立させたのも、やはりKISAKIが最初だった。

実はこの時期にKISAKIは、自らのレーベル「Matina」を設立。
以前からKISAKIの周囲には、才能のある関西バンドたちが集まっていた。KISAKI自身も、自らのバンドの成長はもちろんのこと、同輩や後輩たちの育成にも視野を注ぎ始めていたこともあり、ついにレーベル設立という形を決意した経緯がある。
しかも当時まだKISAKIは20歳である。その若さで、関西シーンを担う重要な存在にまで名を上げていたのも凄いが、若干20歳でレーベルを設立するよう、プロデューサーとしての姿勢を打ち出していたのも驚異的なこと。
この若さでレーベルを立ち上げたアーティストは、昔も今も他に聴いたことがないよう、あり得ないこと。
まさにKISAKIこそ、早熟の天才児だったと言えようか。
このMatinaには数十バンドが、在籍。日本全土を舞台に活動してきたKISAKIだけあり、レーベルには関西バンドの所属のみならず、全国各地から賛同するバンドが登場。一時は、東京や札幌にまで支部が誕生していたほどだ。
そんな彼の地域密着型の礎も、じつはMIRAGE活動時期に誕生。この頃には、「大阪と言えばKISAKI」と言われるまでの知名度と抱擁力、カリスマ性を備えるまでに、KISAKIの存在感はもちろん、戦略家としての手腕も大きく冴え渡っていた。
またMIRAGEは、第一期を終了するに当たり、活動停止に向けたライブやリリース戦略を徹底的に行いながら、活動停止というバンドのマイナス面を、次々とプラスの作用にと変えていった。そのスタイルは、Phantasmagoria時代まで踏襲されたスタイルにもなっていった。

MIRAGEとして活動を行っていたKISAKIは、1998年から2001年にかけ、現d.p.s(THE DEAD POP STARS)のKENZI率いるANTIFEMINISMのメンバーとしても活動。KISAKIとKENZIは、同じ時代を歩み続けてきた盟友とも言える関係だ。KISAKI自身、KENZI(当時はCRAZY DANGER NANCY KENCHAN名義)がリーダーとして活動してきた「かまいたち」、FREE WILL RECORDSの代表でもあるDYNAMITE TOMMYが活動していた「COLOR」からは、大きな影響を受けている。もちろん、DYNAMITE TOMMYとC.D.N.KEN-CHANが手を組み結成したユニット「SISTER'S NO FUTURE」も、KISAKIにとっては大きい存在。
そんなリスペクトする先輩アーティストと共に横一線で活動できた経験は、KISAKIにとっても大きな精神的な糧になったようだ。

第一期~第二期というスタイルを取ったという面は、MIRAGE解散後に結成したSyndromeにも当てはまることだった。同じよう、勢力的なライブ&リリース活動をSyndromeも続けていたよう、表層的な活動面では、MIRAGEで培ったスタイルをより進化させた形として実践していったのが、Syndromeとしての活動だった…が、MIRAGEは、第一期と第二期で微妙に音楽性に変化が出たとはいえ、一環したスタイルを貫いていたのに対し。Syndromeは、第一期と第二期では音楽性をガラッと変えていった。
実際に第二期時では、第一期の楽曲をほとんど演奏することはなかったほどだ。逆に捉えれば、それだけ高い音楽性を持ったメンバーをSyndromeは内包していたということ。第二期では、川崎CLUB CITTA'&日本青年館でワンマンライブを実施したよう、KISAKI自身も初のホールワンマンライブをSyndromeを通して経験している。実際そこまでの人気を得たのも、良質な音楽性と緻密な戦略がしっかり相乗効果を上げていったことが理由としてあるのは、間違いない。戦略家としてその名を轟かせていったKISAKIだが、音楽性でも十分大衆に通用していくスタイルを描きあげることが出来ることを証明したのも、徹底して良質な音楽性を追求し続けていったSyndromeならではの成果と言えようか。
Syndromeのメンバーと言えば、第一期には、現在MERRYで活動中のkenこと健一。第二期には、Dのヴォーカリストである浅葱ことASAGI。そして、第一~二期を通し、現DのRuizaがメンバーとして在籍。彼らを第一線で活躍するに相応しい器まで磨きをかけたのも、やはりKISAKIの成せる匠な才能だった。
2002年8月31日に日本青年館を成功に収め、ここからさらに飛躍か…と思っていたSyndromeだったが、2002年9月07日に渋谷ON AIR WESTで行ったライブで、突如バンドは「無期限活動停止」を宣言。KISAKI自身の体調悪化もあり、結果的にSyndromeは、解散を決意。
Syndromeのラスト·ライブとなった2002年11月18日のON AIR OSAKAのライブでは、リーダーのKISAKIが病欠するという自体にまで陥っていた。
さらに、同年12月31日には、自ら率いていたレーベルMatinaも解体。KISAKI自身も、音楽活動を断念する声明を発表。
これまで築きあげてきた輝かしい歴史が、この時点で途絶えようとする危機を迎えていた。

当時は、引退を考えていたKISAKIだったが。ここまで大きな影響をVISUAL SCENEに与えた男を、世間が放っておくわけがなかった。この頃になると、KISAKIがいくつものバンドを通し実践してきた手法が、VISUAL系を運営していく基本スタイルとなるまでに定着。「関西の顔と言えばKISAKI」と言われたよう、KISAKIの存在が一瞬でも消えたことは、彼を慕い続けてきたバンド連中には大きな損失と映ったこともあり。次第に「もう一度KISAKIさんと一緒に活動をしたい」という声を、ヴィドール、12012を始め数多くのバンド達から受けるようになり、KISAKIは再び音楽シーンに復帰することを決意する。そこで最初に彼が仕掛けたのが、新たなレーベルの設立。それが、2003年3月01日に誕生したUNDER CODE PRODUCTIONだった。
KISAKIは、UNDER CODE PRODUCTIONの設立にともない、自らの音楽活動も再開。その機軸となったのが、ヴィドールのヴォーカリスト、ジュイを迎えたKISAKI PROJECT feat.樹威だった。
このKISAKI PROJECT、Matina時代に、東京のレーベル“LOOP ASH”と共同企画で制作したオムニバス盤『CROSS GATE 2002~un Solitude~』に、樹威を迎え制作したのが始まりだった。KISAKI自身は、身体のリハビリも兼ねつつということもあり、これまでのように激しい活動展開を行うことはなかった。
とはいえ、KISAKI PROJECT feat.樹威もまた、VISUAL系の歴史を語るうえで欠かしてはならない存在だ。現在でこそ、数多くのVISUAL系バンドが海外進出を果たしているが、その先鞭を付けたのが、このKISAKI PROJECT feat.樹威だった。彼らはフランスを舞台に、日本のVISUAL系バンドとしては初となるワンマン·ライブを決行。フランスでのKISAKIは、まさに“神”的な存在として奉りあげられているよう、そのカリスマがフランスの地に降り立つということから、チケット争奪戦が勃発。その人気の凄まじさから、急遽公演前日に、会場の規模を拡大し、よりたくさんの人たちに神を崇め奉るチャンスを与えたという、大きな伝説も残されている。
実際、KISAKIが海外にもVISUAL系というスタイルを拡充していく先鞭をしっかり付けたことにより、その後数多くのバンドたちが、ヨーロッパ、アメリカ、アジアなど、各国で頻繁にライブを行えるようにもなっていった。

このKISAKI PROJECT feat.樹威の活動を進めながら、KISAKIは新たな野望と一つの決意を胸に抱いていた。それが、自身にとって最期となるバンドを結成し、そのバンドでシーンを制圧すること。そのバンドが、2004年11月に誕生したPhantasmagoriaだった。
KISAKI PROJECT feat.樹威の活動を停止させてまで、KISAKIはPhantasmagoriaの活動に全勢力を傾けていった。
これまでは、活動直後からいきなりワンマンライブを行ったり、立て続けにリリース展開を繰り広げたりなど、何かと話題戦略を行ってきたKISAKIだったが、Phantasmagoriaでは、あえてこれまでとは全く逆の展開を施していった。
それが、最初から徹底してイベントに出演し続けるという草の根的なライブ戦略と、質量を重視した制作活動ということだった。
ワンマンライブを一切行うことなく、大小問わず数多くのイベントに出演する戦略を立てていったPhantasmagoria。
特にライブの最初か最期を、一体感を得やすい代表的ナンバー「神歌」で飾ることで、次第に多くのオーディエンスに浸透。VISUALシーンではとても珍しい「楽曲の一人歩き」という現象を産み出され、何時しかPhantasmagoriaのライブへ頻繁に通ってるわけではなくても、『神歌』は知ってるという人が続出。
活動1年を超える頃には、誰もが知っているスタンダード·ナンバーにまで、この「神歌」は成長していった。
VISUAL SCENEでスタンダード·ナンバーを作ることは、X JAPANやLUNA SEAが全盛だった時期ならともかく、2000年に入って以降は、「あり得ない」と言われていた。それをPhantasmagoriaは、たった1年程度の活動で、VISIALシーン全体に波及させるまでの浸透度を見せていった。
言うなればそれが、Phantasmagoriaの存在自体を神格化させていった一番大きな要員とも言えようか。
徹底したイベント戦略によって、Phantasmagoriaの存在や認知度は飛躍的にUP。
戦略家のKISAKIにも関わらず、あえて地道な草の根的活動を行った成果が、一番自身のバンドの飛躍を描きあげたというのも、なんとも嬉しい皮肉と言えようか。もちろん、そこまでの土壌を築いたのも、Phantasmagoriaの持つ音楽性がとても良質であり、21世紀以降のVISUAL STYLEのあるべき姿を、まさに体現、具現化した楽曲たちだったからというのが、何よりも大きいことだ。
結果Phantasmagoriaは、日本での初ワンマンライブで渋谷AXをSOLD OUT。東京日本青年館、大阪中之島中央公会堂(日本の重要文化財)での初ホールワンマンも完売。さらには、UNDER CODE PRODUCTIONのレーベル·メイトたちをも巻き込み、Zepp Osaka、名古屋ダイヤモンドホール、渋谷公会堂のチケットを一瞬で売り切るほどの大きな現象を巻き起こし、ついには中野サンプラザまで埋めるほどの人気と実力を提示していった。
更に2006年4月より、あえて関西のみにターゲットを絞り、TV大阪放送の「神言基地~HOLIDAY TV~」をスタートさせ、KISAKIはメイン司会も担当。あえて関西ローカルにしたところも、関西というKISAKIを育てあげた土壌を何よりも大切にするKISAKIらしさと言えようか。
また2006年12月には、世界中の数多くのメディア、マスコミ媒体を騒がせた事件を、起こしてしまう。それが有名な“脱税事件”だ。プロデューサーとしては超一流でありながらも、経営者としてのスタンスには無防備だったKISAKIは、初めて世間から痛い洗礼を浴びることになる。
だがそこは、不屈の闘士を持つ男KISAKIである。彼はこの負の糧を財産に、さらに経営者としての知識も、その身に蓄えていくことになる。
じつはその負の経験が、彼自身の未来に大きな勝の糧を、間もなく作りあげていくことにもなる。余談だが、この事件をきっかけにPhantasmagoriaの動員や作品の売上が一気に上がったという、なんとも皮肉な結果も残している。
いや、すべてをプラスに変えていく、これもKISAKIらしい伝説と言えようか。
そして伝説や事件と言えば、2007年4月05日、VISUAL界に大きな衝撃波とも言うべきNEWSが駆けめぐった。それはWEB上で告知された「KISAKIの引退表明」、そして「Phantasmagoria2007年8月いっぱいを持って活動を封印」という声明だった。
KISAKIらしい悲劇性と言うべきか。大きな飛躍を得ようとする時期に限って、解散という道へ転がってしまう大きな代償。
同年4月07日、早くもKISAKIは引退のカウントダウンに向けた動きを発表した。その形というのが、渋谷スペイン坂 TOKYO FMスタジオに、KISAKIと戮が生出演。その模様を渋谷ハチ公前3面ヴィジョンを使って発表するという、カウントダウンに向けたビッグ·プロジェクトだった。余談だが、渋谷ハチ公前のヴィジョン3枠はそれぞれ契約先が違うので、この声明用にそれぞれの媒体枠と交渉するという、大変な作業もじつは伴っていた。もちろん渋谷駅前は、KISAKIの声明をいち早く知ろうとするファンの人たちであふれ返り、大きな騒動やNEWSとして取り上げられる話題を集めていた。まさにKISAKIが、一瞬にして渋谷をJACKした事件でもあった。
KISAKIは、Phantasmagoriaという形を通しながら、2007年7月より、全国各地に最期の挨拶を兼ねた全国ツアーを実施。ファイナル前には、代々木公園野外ステージ、渋谷AX、生まれ故郷、和歌山県民文化会館を舞台に。そして最期の晴れ姿を、KISAKIは、最も愛すべき地“大阪国際交流センター”を舞台にと選び、15年間のアーティスト活動に幕を降ろしていった。。。
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