KISAKI OFFICIAL SITE

history_top


●KISAKI HISTORY(1993.09.01〜2013.06.30)

KISAKIが、音楽シーンにその一歩を記したのは1993年9月01日のこと。

当時、KISAKIはまだ16歳の高校生。さかのぼること1992年1月頃からKISAKIは、日本のゴシック·シーン(当時はポジパンと呼ばれていた)に伝説を刻んでいたSCARE CROWのSTAFFとして活動。

同バンドでの経験を糧としながら、みずから初のパーマネント·バンド「Levia」を1993年9月01日に結成したのが、アーティストKISAKIとしての人生の始まりだった。

皆さんもご存じのよう、KISAKIは2007年8月31日を持って一度アーティストとしての活動に幕を降ろした。
1993年と言えば、日本の音楽シーンでVISUAL系という言葉が使われ始めた頃だろうか。当時は、まだ“お化粧系”と呼ばれることが多かった時代。その頃のVISUAL界は、X JAPANが海外進出を画策し、活動の拠点を米国に置き始めた頃であり、LUNA SEAがメジャーに進出して間もない時期。インディーズに目を移せば、L'Arc-en-Cielや黒夢が、その名をシーンに轟かせ始めようとしていた。
ゴシック系バンドのSTAFFをやってたとはいえ、KISAKIがVISUAL系という表現スタイルを選択したのも、今思えば“定められた運命”に導かれ出した最初の答えであり。その選択が、後に“VISUALシーンの歴史を語るうえでは欠かせない最重要人物”を産み出す事になるとは、果たして本人も予測していただろうか…。
案外、KISAKI自身は、そんな未来図を頭の中で描いていたのかも知れない。

伝説の歴史を重ね続けていく定めを、誕生と同時に背負ったKISAKIは、攻撃的なサウンドを魅力に据えたLeviaを通し、地元和歌山県では早くも他の追随を許さないSUPER BANDとしてその名を馳せていく。
Leviaは、バンド結成2ヶ月後に早くも和歌山オールドタイムでワンマン公演を開催。さらに、メジャーバンドのオープニングアクトも務める。
地元のメディア各紙で取り上げられるほど、短期間でその名を地元に知らしめていった。
これも、当時からKISAKIが、軍師としての才能を覚醒させていたからこその出来事。まさに彼は、早熟の天才児だった。
が、Leviaは、KISAKIの誕生日でもある1994年3月10日に行った、高校卒業記念も兼ねたワンマンライブを持って解散。
和歌山の音楽シーンに疾風のごとく短き歴史を刻みながら、KISAKIは単身で大阪へと進出していく。
これは“KISAKIの15年の歴史”に於いて、常に付きまとってきたことだがKISAKI自身の精神性の高さとセンスに同等に接する才能を持ったアーティストと、彼自身巡り合うことが難しかったのだろう。
パートナーとなるメンバーとの巡り合わせには、つねに不遇を受けてきた。
La:Sadie's以降こそ、KISAKIがリーダーとなり、才能の育成をバンド内でも行ってきたが、それ以前は、バンド内で対等な関係を求めようとしても、KISAKIの突出した才能を受け止めきれるメンバーに巡り会うことは、とても困難な事であったのも事実。

大阪進出後最初に動きを描いたのが、1994年4月に結成した、メロディアスであり同時に刹那な世界観を映し出した、ポジティブパンク系バンドのLAYBIALだった。
このLAYBIAL、結成当初から話題を集め、KISAKI初の東京進出も果たすが…僅か3ヶ月で、KISAKIは音楽性の違いから脱退。
余談になるが、その頃から、KISAKIの魅力である“刹那/耽美”という音楽性の土壌は形成されつつあった。
LAYBIAL脱退後、間髪入れずKISAKIはハードな姿勢を打ち出したバンドSHEY≠DEを、1994年7月に結成。だがこのバンドも、メンバーの脱退などにより1994年11月23日に難波ROCKETSで行ったライブを持って、解散。
KISAKIの短命バンド伝説が、その頃から、彼を彩るアナザーな表情に成り始めていた。
SHEY≠DE解散後、1994年12月01日付けでKISAKIは、打ち込みを多様したゴシックバンドのGARDENに加入。当時GARDENは、ゴシックシーンでは日本をリードしているJubilee、GILLE' LOVESらと共に、主催イベント「Gothic Nihgt」を通し、アンダーグラウンドシーンにしっかりと根付いていたシーンを担う新たな存在として、その名を全国に轟かし始めていった。
この当時KISAKIは、現DIR EN GREYのShinyaが在籍してきたバンドRubyのサポートベーシストとしても活動。
その頃からKISAKIの中には、ゴシックという枠には収まりきれない、自らの表現枠の膨張を感じていたのだろう。
加入して半年も満たない時期にKISAKIはGARDENを脱退。その脱退ライブがSOLD OUTを記録したというのも、なんとも皮肉な結果だ。
だが、この時点でもKISAKIの迷走は続いていた。
1995年7月にKISAKIは、関西シーンでは相応の実力と知名度を誇っていたバンドStella Mariaに加入。
策略家KISAKIの加入は、Stella Mariaにとっても強い追い風となり。デモ音源『Tabularasa』発売を記念し行ったワンマン公演には、定員100名のライブハウスに800名もの人が集まり、大騒動になったという伝説を残している。
その後Stella Mariaは、関西VISUALシーンでは欠かせぬ存在にまで人気や知名度を上げていく。と同時にKISAKIは、現DIR EN GREYの京と再会を果たす。
意気投合した2人は、「廃人黒薔薇族」と名付けたセッション·バンドを結成。Stella Mariaと平行し、ライブ活動をスタートさせた。
この廃人黒薔薇族、出演したイベントはすべてSOLD OUTを記録。
大阪城のストリートで行ったゲリラ·ライブには、約1000人もの観客たちが集まり、当時NEWSとしてTV報道まで成されている。
廃人黒薔薇族での活動に確かな手応えを感じたKISAKIと京は、共にLa:Sadie'sの結成を決意。KISAKIは、すぐさまStella Mariaの脱退を表明。
KISAKI脱退ライブとなった1995年12月29日大阪アムホールワンマンライブはもちろんSOLD OUT。

これまでも、インディーズ·シーンでは話題の存在だったとはいえ、まだまだ関西地域メインな知名度の域を抜けていなかったKISAKIの名前を、一躍全国区まで知らしめたのがLa:Sadie'sの存在だった。今でこそ当たり前になっているが、当時では非常に珍しい、荒々しい音楽性を全面に押し出した高速2BEAT STYLE、奇抜&怪奇なステージ·パフォーマンスとステージングを見せたLa:Sadie'sの音楽スタイルは、“視覚·聴覚·感覚”を鮮烈に刺激するVISUALスタイルと相まって、当時は“極限まで進化した音楽性”として、VISUALシーンに大きな衝撃を与えていた。
さらに、今でこそ日常と化している「異なるジャケットによる発売」や「三種類同時リリース」という視覚を魅力にした販売スタイルも、La:Sadie'sが…いや、それを仕掛けていったKISAKI自身が編み出していったリリース戦略と言っても、間違いではあるまい。
当時のKISAKIがLa:Sadie'sを通して行ったあらゆる事象は、結果的に今のVISUALシーンの常套手段にまでなっている。
「1曲のみの演奏」というインパクトを通し、観た人の欲求を掻き立てていくスタイルにも現れているよう、「ファースト·インパクトでどれだけ衝撃を与えていくか」という戦略は、もともと評判を呼んでいたLa:Sadie'sの名前を、一気にカリスマ化していく作用を与えることになった。
このLa:Sadie'sの頃からだろう、次々と話題を提供しながら衝撃を与え続けていくという、KISAKI独特の戦略であり、今のVISUAL界では誰もが取っている常套手段ともいうべき礎となる動きを、KISAKI自身がどこよりも早く取り始めていったのは…。
「十字架ニ捧ゲル夢…」各1000本C/W曲&ジャケット違い三種類音源同時発売など、ユーザーの購入意欲をそそるリリース戦略。
また、KISAKI初の全国ツアーを行ったのも、La:Sadie'sが最初の体験だった。主催イベントを勢力的に行うようになったのも、やはりLa:Sadie'sを通しての経験が土台になっている。
活動から半年程度で、La:Sadie'sの名前は全国各地に浸透。1996年12月20日·西九条BRAND NEWで初ワンマン公演(チケットは発売5分で完売)を実施し、華々しい展開を予感させるが…そこで告げられたのは、まさに衝撃と言うべき「La:Sadie's解散」宣言。
この頃から、バンドが大きく飛躍していくであろう重大な岐路となるステージで衝撃的な発言を行うという伝説も、KISAKIは築き始めていた。
結果、La:Sadie'sは、メモリアル·マキシ盤『Lu:Ciel』を発売し、終幕。最期にメモリアル作品を残すというスタイルも、KISAKIが作りあげた形と言えようか。
当時La:Sadie'sのメンバーだった京、薫(当時はKAORU)、Die、Shinyaは、現在DIR EN GREYのメンバーとして、世界を舞台に活躍しているのは、皆さんもご存じの事だろう。
1 2 3 4 5